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『俺が今日からお前たちの隊長になる周俊応だ。気楽に頼む』
そう言って朗らかに笑ったその人は、今までの隊長とはまるで違う風を
引き連れてやって来た。
黄祖戦の後、姜珂が所属する隊の隊長に当たる伯長が代わった。
なんでも、黄祖戦で最後まで上官である甘寧に従ったことが評価されたらしい。
しかしながら、下から見ればそんなことは瑣末なことである。姜珂ら兵卒が
抱く最も大きな懸念は、命を懸けても惜しくない人物であるかどうかなのだ。
無論頂点に戴く守るべきお方は江東の主たる孫権に違いはない。
だが、そうは言っても戦場にあって姜珂たちが実際に従うのは声も届かぬ
高みにいる孫権ではなく眼前にあって指示を飛ばすまとめ役たちだ。
その人物が矮小であること。これ以上の不幸は兵にはあるまい。
そういう意味では、兵士になりたての姜珂は恵まれていた。
「おい大丈夫か。だが戦場で敵は待ってくれんぞ。さあ、立て」
「飯は食ってるか。ちゃんと食わんとでかい男になれんぞ」
「喧嘩をするな。俺たちは孫呉の誇り高い兵士だということを忘れるな」
出自は姜珂よりも遥かに下。でありながらその眼差しはいつも高く、
なおかつ下の者たちを見落としはしない。「兄貴分」。周孝を表すには
この言葉こそ真にふさわしいと姜珂は自然と思うようになっていた。
元より4人兄弟の末であり、懐きやすい性格の姜珂はすぐに周孝に懐き、
周孝もまた、一途に追いかけてくる姜珂を可愛がってくれた。
そんなある日のことだ。姜珂は周孝に連れられてとある民家を訪れる。
そこにいたのはひやりとした空気をまとい、厭世的な雰囲気を醸し出す
ひとりの男だった。からりとして騒がしいまでに明るい上官の友人と
紹介されてもすぐには信じられなかった。
最初こそ怯えていた姜珂は、しかしある時を境にその恐怖をなくす。
そのきっかけとなったのが、彼が奏でる音楽だ。
天上の音。音楽の造詣が深いとは言い難い姜珂が抱いた最初の感想である。
夢でも見ているのかと思ったが、反動でこぼしてしまった白湯の熱さに
それが現実であると思い出した。
彼の奏が終わると姜珂は先に心を固めた恐怖など忘れ去ったように
彼を褒め称える。下手な言葉で、しかし熱のこもった調子で、精一杯に伝えた。
そうすると彼――――呂秀は少し眉をひそめたが、同時に唇を緩めてくれた。
そのあまりに不器用な微笑みのせいか、姜珂は小指の爪の先ほどに残っていた
わだかまりさえ捨てて彼に上官に向けるそれと同等の敬意を抱くようになったのだ。
帰り道、上官が冗談交じりに教えてくれたことがある。
「あいつはな、出会った時はそれはひどい無愛想な奴で、最初の頃は無視。
それでもしつこく通って今度は物が飛んでくるようになったな。
相手をしてくれるようになったのはあいつが奏でる音を100個当てたくらいからだ。
まったく、最初から相手にしてもらえるなんて得な奴だな季元は」
笑ってしまったのは、上官のおどけた態度のせい。そして、それほどに
頑なだった呂秀が自分を領域に踏み入らせてくれるほど柔らかくなっている理由を
知ったから。
この、いつでも新しい風を運ぶ上官の相手をしていれば、
それは変わりもするだろう。たとえ彼のような人物でも、だ。
家では兄たちの影に隠れているばかりだった季元が明るく話を
するようになったのはこの後からである。
彼の話題にあるのはいつも、底抜けな明るさと高い志を持つ周孝、
天からの賜り物の如き音を奏る呂秀という、ふたりの兄分のことであった。