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自室を出た私は黙々と仕事をするあの子を見つけた。
背に合わない竹箒を懸命に動かす姿は可愛らしいが、
その表情はやっぱりどこか固くて、じっと見ていると息が詰まりそうになる。
私は下ばかり見て散っている桜の花びらを集めているあの子に
後ろから声をかけた。
「お疲れ様」
突然後ろから声をかけられたせいかあの子はかすかに
びくついた様子を見せる。もっと早く、距離を置いて名前でも
呼びかけていてやればこう驚かせることもなかっただろう。
しかし、反省しても私にはこれを改善する方法は声をかけるための
距離を置くことしかない。彼とその妹に、呼びかけるべき名前がないためだ。
預かることになった時に、私はもちろん老人に名前を訊いた。
その結果が、「ない」、だ。
曰く、両親がこの子達に名前を付けなかったのだという。
こう言ってはなんだが、権利――――というより義務を放棄した
この子達の両親にはその時から嫌悪しか覚えていない。
いつか会うことがあったらこの右拳がうなるだろう。
「――――いえ、仕事ですから」
すぐに冷静を取り戻したあの子は視線を落としたままさらに
顔まで下向ける。礼儀正しい挨拶もただただ寂しいばかりとは。
とりあえず、この子が自分から上を見てくれることはないので
私はその前にしゃがみこんで彼を見上げた。
一瞬合いかけた視線は、しかしすぐに逸らされる。
その難しさに苦笑してしまう。
「ねぇ、そろそろ名前決めない?」
対子供用の柔らかい口調を駆使して、私はこれで何度目ともない問いかけを
口にする。名前がない、と言われたので、私は出会ったその日からこの子に
名前を決めようと持ちかけている。
だがこのこの返答はこれもまた頑ななのだ。
「結構です。私のことは『おい』や『お前』で呼んでくだされば十分ですから、
どうぞお気遣いなさらないでくださいマスター」
毎度同じな、まるで定型句として登録されているかのような返し言葉。
私は素っ気無いというよりは意地になっているような感じのするそれに
困ってしまい眉を寄せてしまった。
すると、別に怒ったわけではなかったのだが、彼は少しだけ慌てて頭を下げてくる。
「お心に反することを申し上げてしまって申し訳ございません。ですが、
私は本当に結構でございます。――――お名前をいただけるというのでしたら、
是非妹につけてやってください」
頭を下げたまま、ぽそりと彼が口にしたのは彼に残された唯一の血縁者。
まだ自身に名前がないことすら知らない幼い妹の未来を案じる顔は
とてもとても寂しそうで、私は時折見かける光景を思い出す。
「にー」とか「にーちゃ」とか、兄を表す単語で彼女に呼ばれるたびに、
彼女と目を合わせるこの子は嬉しさと悲しさをごちゃ混ぜにした表情を
するのだ。
多分だが、彼が自分に要らないというものを妹に求めるのは、彼自身が
彼女に呼びかけられないからだろう。
彼には最終手段「お兄ちゃん」があるが、彼が妹に呼びかける手段は、
何もない。それがきっと、凄くもどかしいのだと思う。
もしそうだとしたら気持ちは分かっているつもりだし、なおさらこの子にも
名前が必要ではないだろうか。
彼女がこの子を含めた誰かに名前を呼ばれるように、この子も誰かに名前を
呼ばれるべきなんだ。
名前とは存在を表すもっとも単純で、しかし確かなもの。
誰しもに与えられて然るべきものなのだ。
この子に与えられないなんて、間違っている。
「やっぱり――――」
『やっぱり君の名前もちゃんと決めよう』。
そう口にしようとした時、宮内の時計代わりとなる鐘が12時を知らせる音で鳴る。
言葉は鳴り響く鐘の音に飲まれ、私が思わず時計塔の方に
目をやると、彼はその隙をついたかのように頭を下げなおした。
「申し訳ございませんが昼食準備の時間なのでこちらで失礼させていただきます。
また御用がございましたらお申し付けください」
「あ」
お決まりの辞去を述べると、彼はそそくさと小走りにその場を離れて行ってしまった。
若干避けられつつあるなと思いながら、私は懐中時計を開く。
時刻は11時55分。5分早い。
「あんのものぐさ時計番。ホントに時計デジタルにして仕事なくしたろか」
少し乱暴にふたを閉めつつ悪態をついた相手はこの宮の時計塔に
住んでいる時計番。
別にそこに住む必要はないのだが自室に戻るのが面倒だとほぼそこに
引きこもっているものぐさ太郎だ。この男、就任してからまともな時間に
鐘を鳴らしたのは数えるほどである。
いつものデフォである10分遅いよりは住民から苦情も出ないだろうが、
今回の5分前行動は個人的に勘弁して欲しかった。
私はため息をつきつつ、次の機会を待って部屋までの帰途に着く。
ポケットにいつも入れているメモ帳に触れては離すという動作を
繰り返すたびに、ため息はまた増えた。